試合にもロクに出られない選手じゃ当然パッカーズとの契約延長は成立せずそのまま日本に残留することになり、その日の夕方には川崎球場(現:富士通スタジアム)で日本代表の最終ミーティングに参加です。その日は日本協会が用意してくださった川崎球場近くのホテルに宿泊。明日はフィンランドとのゲームではありますが「日本人初のNFLをクビになった男」という人生最大の悲しい出来事の直後ですから、気の合うプレーヤーとビールを飲みに出かけました。
この試合の数日前に外国人記者からパッカーズの選手として取材を受けてました。「ミスターナカムラ、今度戦うフィンランドチームをどう思いますか?」と。1度だけビデオを見たのですが、キッチリしたフットボールをしておらず体は大きいがヘタクソな印象だったので「70対0で日本が勝つよ」とコメントしました。
東西の社会人が集結し現在の日本ではおおよそ最強のメンバーが揃った「初の日本代表」という事もあり当然このコメントは物議を醸しました。フィンランド代表チームもとても怒っており、前日練習でも僕に対して集団でかなり暴言を吐いていました。そりゃまあそうでしょう。日本側からも「おい多聞、こういうコメントは困るぞ」なんて注意を受けたような気がしますがあんまり覚えていません。
で、結局試合は日本代表が終始圧倒。前半だけで29−0。僕の予言は当たりそうでしたが後半は日本代表が武士道精神で無理に点を取りに行かずシャンシャンで試合終了。僕は昨日の脳震とうが響いたかどうも調子が悪くて殆ど活躍できずに大量の汗をかくだけで終わりました。
そして試合後のインタビューでフィンランド代表の監督から「今回イチバンの先生はナカムラだった」というコメントを頂戴しました。
これで日本→ドイツ→アトランタ→ドイツ→ヨーロッパ転戦→日本→グリーンベイ→日本と飛び回った僕の1998年ワールドツアーは終了です。出発前よりも50倍ほどランニングバック術が上達した僕は「サンスターファイニーズ」に戻りエックスリーグで大暴れしてやるぞー!と意気揚々で大阪に帰り、元の建設業のサラリーマンに戻りました。
するとすると、家のファックスにファイニーズのヘッドコーチから「クビ」という文書が送られてきました。理由は現在発売中のタッチダウン誌(1998年9月号)における僕のコメントだと。「日本では作戦面の○と×でとても困惑していたが、アメリカ人らは強くて速いことが基本。頭の問題はあとで付いてくるのでやりやすかった」なんて内容でした。4人での対談だったのでつい本音が出てしまったワケですが、怒るのも無理ないですね。
大変なことだ!!と仲良しのメンバーらに相談し、とりあえず謝ろう!ということになり「辞めたくはないので練習に行かせてくれ」と謝罪し練習参加しましたが、春の間チームから離れていた僕はプレーコールを知りません。「全部覚えてきたら練習に参加させてやる。それまでは横で見てろ」と言われションボリ。渡された資料はA4で厚さが3cm以上。僕のアホなアタマでこんなのスグに覚えられるワケがありませんというか永遠に不可能です。
再度先ほどのメンバーでミーティングし「もう移籍しかない。昔からずっと誘ってくださっている義政監督のチーム(ブラックイーグルス)に行く」という僕の思いと皆の意見は違いました。「それもいい考え方や。でもせっかくNFLまで行ったんやから優勝できるチームでやって日本一になれ。パナソニックには入れないんだから今ならアサヒ飲料しかない」とアドバイスを受けました。
そこに電話が鳴りました。「あ、ナカムラくん?この前東京でお願いした件やけどいつ時間ある?」と。アサヒ飲料の新ヘッドコーチ藤田智さんからです。そして会う約束をしました。高槻にあった僕の家近くの居酒屋でNFLヨーロッパやグリーンベイのこと、色々話しました。僕の話をノートに書き続ける藤田さん。一方サンスター側は「アメリカ帰りなど関係ない。プレーを覚えるまでダメだ」となれば僕の気持ちは完全に傾きます。
藤田さんとの時間が終わろうとする時に「実は昨日サンスターをクビになったんですが藤田さんのチームでは新人の枠はまだ残っていますか?」と切り出しました。
「えー!!何それ?!ウチはまだギリギリまで枠を残してあるよ。来てくれるならチームと相談するよ」というご回答。この偶然が重なり合った奇跡の出会いとタイミングでこの後の僕の選手人生が大きく変わるのでした。
つづく
