多聞コラム15feb2017_vol,155「ゴリゴリ多聞、自伝を語る64」グリーンベイその10

 さて2016年度のフットボールシーズンが終了し、日本ではそろそろ2017シーズンが始まろうとしています。久々にこの「ゴリゴリ多聞、自伝を語る」を書かせていただこうと思います。

20世紀末当時はまだ活躍していなかったので認知度が低い僕でしたが成功に向かってど根性で邁進する日々を送っています。

プレシーズンの第1週が東京ドームで開催されるため、パッカーズのキャンプ地であるウィスコンシン州のランボーフィールドからチーム全員で日本へ向かいます。日本航空のチャーター機です。チーム序列順に前から座席指定されています。2階建ての大きなジャンボジェットなので席数には随分余裕があります。1人で1列。寝転んだり出来てNFLヨーロッパの遠征のようにぎゅうぎゅう詰めだったのに比べ、お金のかかり方が桁違いです。この機内の乗務員さんに偶然このターンオーバー編集長宍戸さんの奥様がいらっしゃったのも何かの縁だったのでしょう。

成田だったか羽田だったかもわからず、空港から貸切バスでホテルに直行。そしてまたスグに貸切バスでどこかへ練習に出かけました。天然芝のフィールドだったことだけ記憶にあります。この年度からアサヒ飲料チャレンジャーズのヘッドコーチに就任された藤田さんもその練習を見学に来ておられました。そこで声を掛けてもらいます。「中村くん初めまして。今度大阪でNFLヨーロッパの事などを聞かせてほしいのだけどどうだろうか?」と。ほぼ初対面でしたが僕は当然彼の学生時代をテレビで見ていますのでお名前だけは存じています。思っていたより背が高いなと言う印象でした。確か自分の携帯番号をお伝えしたか何だったと思います。

ゲームでは僕のランプレーが7種類ほど用意されてあり、気持ちと体の準備は万端。練習毎に囲み取材を受け、日本のテレビ局はもちろんNFL FILMSのカメラも僕にベッタリ付いていますし目立ちたがり屋の僕にとって、注目度は申し分ありません。大学3部リーグで100点差で負けていた初期から考えると大出世です。NFLのプレシーズンに出場するわけです。選手入場では友人に買って来てもらった「巨大な日の丸旗」を持ってQBブレットファーブ選手に見送られながらパッカーズの面々が作る花道を駆け抜けました。

ゲームが拮抗していた事と、オフェンスのドライブが続かなかった事もありランニングバックとしての出番はありませんでしたが、キックオフカバーでの出番は数回ありました。何度目かで気持ちが慣れて来た僕はNFLヨーロッパやエックスリーグでならした(つもりの)ウェッジバスターで、カンザスシティチーフスのウェッジの2人に自分の出せる最高速度の状態でノンブレーキで突っ込みました。しかしさすがはNFL。僕の方が背が低く当たった場所は彼らのヘルメットよりも下部だったにも関わらず倒すことが出来ませんでした。それどころか僕は膝がガクンとなり、倒れはしませんでしたがアタマがクラクラ。振り返って考えると完全にコンカッションです。脳震とうです。

ベンチに戻った僕はまたもタックルできなかった悔しさでいっぱいでしたが足元がふらつきキックオフ時の記憶がありません。時間の感覚もおかしくなり何故今黄色のヘルメット軍団らとベンチに居るのかがよくわからなくなっていました。見学だったのか日本人の知人の方が僕のおかしくなった様子に気づいてチームのトレーナーに「彼はいつもと違う!おかしいから見てあげて!」と告げてくださっていましたが、体に異常が発覚したらホケツ中のホケツである僕などこの後ゲーム出場のチャンスを失ってしまうことは明確です。ですから「大丈夫!」と笑顔でトレーナー(だか誰だか人数が多すぎてわかんないが)に言って逃げ回っていました。その後ヘッドコーチのマイクホルムグレンに呼ばれ「タモン、今日はもう出番はない」と告げられ終了。

ボールを持って走る事も、せめてスペシャルチームでタックルを。。。。と言う願いも叶わず終わってしまいました。試合後、契約延長もならずユニフォームやヘルメットなどをそのまま頂戴する許可をヘッドコーチから得て、記念品は無事に確保できました。

そしてここから僕のNFL経験を最大限使った日本リーグでトロフィーを目指して頑張る新しい章が始まります。手始めにこの翌日に日本代表対フィンランド代表の試合が同じく東京ドームで行われます。1998年当時は脳震とうのケアなど「根性」で済まされる最後の時代でしたので誰にも告げずにゲームに参加するのでした。

つづく

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