多聞コラム13apr2014_vol,35 QB&DE田まさみつの軌跡と引退

田昌光引退

引退を決意した理由は「肘が痛くてボールが以前のように投げられなくなった」から。まあ何ともアッサリしたもんだと思いました。47歳までやってチョット肘が痛いくらいで引退するって意味わかりませんが、本人の問題なので仕方ありません。

SNSで引退を表明した日本大学フェニックス出身、田昌光センパイのタイムラインには、ファンや仲間から多くの労いや惜しむコメントが書かれていました。「センパイお疲れ様でした」なんてテキトーで安易な言葉じゃ失礼かと思うだけで、良いセリフも思い浮かばないまま数日が過ぎてしまいました。

新しいドアをドンドン開けて行く事を毎年楽しむスタイル。何ならポジションまで変えちゃう程のフットボールクレイジーは、僕の大切な「東京のアニキ」であり「親友」です。

今回は、偉大なセンパイの事を少しでも皆さんに知ってもらいたい!忘れてもらいたくない!という想いで、『田昌光オーンステージー!』と銘打ち、田センパイのフットボールライフ、ビッグな思い出トップ10を発表して頂く事に致しました。

田センパイの思い出トップ1はやはりコレでした・・・。

【第1位】19871213日 甲子園ボウル(大学4年)

選考理由:相手は前年と同じ京都大学ギャングスターズ。QB東海辰弥君(怪物くん)の早いタイミングパスに全くプレッシャーをかける事が出来なかった。前年度の甲子園ボウルでは出場出来ず悔しい思いをしたのでQBからDEに急遽転向し、4年生だが3軍からのスタート。楢崎五郎キャプテンが毎日付きっきりで朝から晩まで指導してくれたので1年間を無事に1軍でプレー出来たが敗戦した。勝って篠竹監督を胴上げしたかったが適わず、未だに悔しさが残るフットボール人生最悪の思い出である。

タモン寸評:センパイ、と言う事は春の開幕までの短期間でスターターなったんですか!しかも前年は5-2だったのが4-3になったのに!凄いですね!しかしあのゲームは今のセンパイでは考えられないほどマジメな面構えでしたね~イヤ~怪物くんじゃ相手が悪いですわ~。

【第2位】198312月 日本大学フェニックス特別推薦枠争奪トライアウト(通称セレクション)

強力な紹介者が居なければ受験する事すら出来ないと言う敷居の高さであったが、お願いに行った高校生の自分に篠竹監督が 「セレクションで総合成績トップ3に入れば入れてやる」と優しい眼差しで言って下さった。篠竹監督の一言がなければフェニックスに入れなかったし、これほどフットボー ルを続けることはなかったと思う。

タモン寸評:「え?!センパイ、セレクションで3位に入ったんですか?まあまあ凄かったんですね。これって基礎体力測定なんですよね確か」

田:『そうだよ。1位がQBの佐藤トモ。2位が俺。3位が楢崎五郎』

【第3位】1984年日大フェニックスグランドでの一軍練習

当時日大は練習の最後に毎日試合をしていました。1軍オフェンスは3Qまで4年 でエースQBの松岡秀樹さん、最終の4Qからは他のQBや田が日替わりでプレー。TDを取れないと先輩達である一軍オフェンスの全員が罰を受けた。申し訳なさで生まれて初めて胃が痛いと言う事を経験したのが後のフットボール人生にモノ凄く役立った。

タモン寸評:「松岡サンの後で1年坊の田センパイじゃ、守備陣は楽チンだった事でしょうね~」

田:『うるせえ!』

【第4位】2005115日 チャレンジボウルMVP受賞と副キャプテン

日本代表選考試合のチャレンジボウル(オールスターゲーム)に最年長での出場だった。ブレナンと井本それぞれにTDパスで逆転勝利。そしてMVP受賞。表彰式で皆が胴上げしてくれたのが本当にうれしかった。

タモン寸評:「チャレンジボウルって何ですか?関西には無いですよ」

田:『オールスターだっつってんだろ!』

【第5位】201294日 オール三菱ライオンズ戦逆転ドライブ「DEN MAJIC

秋季リーグ初戦。このゲームを落とすとプレーオフ出場が厳しくなる。3-7でリードされて迎えた自陣20ヤードからの攻撃。4Q残り時間2分。ここからの出場でした。1分56秒を使ってのTDドライブ。かなり楽しかった。

タモン寸評:「交代を告げるのはオフェンスコーディネーターのご自身ですよね?目立ちたがりにも程があるんとちゃいますか?QBコータイ!俺!って言うんですか?ウヒヒヒヒ~!」

田:『それはそれで難しいんだよ・・・』

【第6位】20022月 36歳でアサヒ飲料入部

2年連続で社会人チャンプのアサヒ飲料チャレンジャーズに中村多聞ヘッドコーチに誘われ入部。この頃から既に大ベテランと言われていました(笑)この移籍が忘れていた勝ち方を教えてくれた。

タモン寸評:「藤田さんが辞めて弱体化が明確だったのをどうにかしたい一心で三武ペガサスの厳しさをナヨナヨしたチームに注入して欲しかったんです。でもセンパイはホケツだったので大人しかったから役立たずでしたね。でも大雨のゲームで60ヤードのロングパス投げたのはビックリしました。このあと10年以上もプレーしたんですね。エグいですね」

【第7位】1993年冬 三武ペガサスで一部との入替戦

日本一を目指して作られたチームの最初で最後の1部への挑戦。対さくら銀行。  多聞は活躍していたけど2ファンブルロスト。最後のFGもオマエが外して負けたんだよな確か。このゲームに敗れて主力が抜け、チームは事実上終焉。タラレバは言いたくないが勝っていたら面白かったかもしれないと思っている。

タモン寸評:「ちょーっとボク用事があるので失礼しまーすサイナラー」

田:『テメーふざけんな!』

【第8位】20032月 オンワードスカイラークスでライスボウル

アサヒ飲料退部した後、大学の後輩である須永から連絡をもらい入部。パッシングスキームを新たに学んだ。ここで自分がやりたいパッシングオフェンスを見つける事が出来た。あまり出番はなかったがライスボウルまで行き大事な1年間となった。

タモン寸評:「チーム変わり過ぎでしょ。明らかに友達作りが目的ですよねこんなん。でもライスボウル負けたんですよね」

田:『オマエも関学に負けたじゃねーかよ!』

【第9位】2005.2006.2007年 ハスキーズ2部で3連覇

オンワードスカイラークスで学んだオフェンスを思う存分プレイしたくてハスキーズへ。3年連続でパス1400ヤード。成功率7割以上でリーディングパサーを獲得。1部でまた投げたくなった原動力だった。

タモン寸評:「トムブレイディぐらい投げましたね~。さ、次行きましょか」

【第10位】タモンの活躍全体

1999年にドイツへ応援に行った時の試合は引退したトロイエイクマンがタモンの試合を解説しているという信じ難い状況。そしてその後にライスボウル優勝したりと本当に嬉しかったよ。あの時ドイツで、NYGQBに個人レッスンしてもらって日本とアメリカじゃこんな簡単な基礎訓練でも考え方やヤリ方が違うんだなと勉強させられた。あれで意識が変わって巧くなったもん俺。

タモン寸評:「センパイありがとうございます。全てセンパイのおかげです」

大柄な家系で筋肉質、怪我をしにくい体質、強い肩、才能や環境に恵まれているとは言え、グータラ寝ていて47歳まで競技を続ける事は不可能でしょう。本人は「ひとつひとつを乗り越えてソレを楽しんでるだけ」などと言うが、並大抵の努力では無かった事でしょう。プロ選手では無いので「タダ好きだから」という理由だけで、仕事や家庭以外の時間をフットボールに費やして来たエネルギー量が多過ぎる事。コレがこのオトコのカッコ良さ。痛めた肘はスグに治って現役復帰しても、もうこのコラムでは書きません。センパイ、今度のハドルボウルはボクのチームで出て下さい。

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