多聞コラム6mar2014_vol,28「ゴリゴリ多聞、自伝を語る7」高校大学時代

 高校生になった僕はフットボールへの想いはあるもののプレーする場所は河川敷のプライベートチーム(*1)。しかし練習開催を予定している日曜日の集合時間(*2)に誰ひとり来ない日も多く、所属していてもムダだなと感じた僕はだんだんフットボールから離れて行きます。アメリカ留学から帰って来たセンパイ(*3)の話を聞けば聞く程気持ちは盛り上がりますが何も出来ないままオートバイ(*4)にのめり込んで行きます。大学受験が近づき、1部リーグ所属(*5)で僕の学力で受かる大学はありませんでした。前出の恩師板橋先生が大阪体育大学出身だったこともあり、僕も志望しますが高校で運動部に入っていない者(*6)には結構高い学力が求められるという理由で高校の担任から却下され、フットボール部の活動が知られていない南河内大学へ進学するしか道はありませんでした。

(*1)中学生でも入れてくれるチームをQBクラブの親切な方に紹介してもらった。がやはりそんなチームは集まりも悪い。今となってはアタリマエだけど当時は意味がわからなくて困惑した。

(*2)阪急十三の橋の下あたりと記憶しています

(*3)我が清教学園は交換留学生制度が盛んで年間に何人もの留学生を受け入れて送り出していました。アメリカに行った2学年上のタイラ先輩からアメリカの高校の話を聞くのがとても楽しくて羨ましくて自分も必ず行くんだ!と勝手に決めていましたが安価で留学出来るテストに落ち夢も散りスポーツも勉強もせず。

(*4)高校の思い出はオートバイで遊んでいたことばっかりです。よく死ななかったと今でも運の良さに感謝しています。

(*5)この年の関西1部リーグは「京都・関学・同志社・近畿・大体・立命・神戸・大阪」で構成されており、チャンスがあるかもしれないは大体大か近畿大の夜間だけでしたが諦めました。

(*6)ラグビー部に入ったのですが、ルールがつまんなくてヒト月でヤメました。

クラスメートに大阪産大付属フットボール出身の宮ちゃん(*7)が居たのをきっかけに大学2年の後半から幽霊部員含む15人程のフットボール部に所属、練習には2、3人しか集まらない(*8)日などザラにありました。大学3年の秋から協会に所属しもちろんリーグ戦全敗を記録。5試合で我がチームが獲得したタッチダウンは2本。うち僕が1本。いずれもPATは失敗。取られた得点は300点以上。

(*7)後のキャプテン。僕と関わってヤメちゃったザコをなだめてはクラブに戻す役回り。4月2日生まれ。

(*8)3人しか来なかった日には2人がOne on OneまたはMan and Manを行い、ひとりがビデオを撮る。

翌年はスポーツ推薦で入学してきた経験者なども含め40名程に増えたチームにはなりましたがそこそこ善戦するに留まり秋リーグでは結局全敗。

しかしこれまでの「フットボールをプレー出来なかった境遇」から比較するととても前進しているわけで、試合で結果を出せないのは自分の実力不足以外何の理由も無いわけです。このままでは僕を社員として雇う実業団チーム(*9)(当時はシルバースターとサンスターだけが強豪クラブチームで他は殆どが社員100%の実業団)はありません。

秋のシーズンが終わるや否や第1回ジュニアオールスター(*10)が開催される事が発表されます。コレは大チャンスがやって来たとほくそ笑みました。全敗チームからも選出される甘めの選手構成の隙間に見事入り込み出場枠を確保した僕は練習で目立つ方法を板橋先生に相談に行きます。そして先生はこう言いました。

「ええか。オマエの事なんかだーれも知らんねんからメチャクチャやったれ。タックル無しやとか半分のチカラで当たれとかの練習でも全力でバッチバチに行ったれ。ほんなら向こうもやり返してきよるやろけどそれでもまたぶっ倒しまくっとけ。絶対に手を抜くなよ。どんな時でも誰に何を言われても手を緩めるな(*11)。それしか目立つ方法は無い」と。

そしてスカウトの為(*12)に東京から練習を見に来られていた三武ペガサスの皆さんの目にとまり、チームのキャプテンである楢崎五郎氏から「一緒にニッポンイチになろうよ!」と言われ大感激。その場で三武ペガサスへの入団を許される事になったのです。低レベルながら本気でフットボールをしたことによって人生の大きな岐路が目の前に転がって来たのです。

そして数日後、宮ちゃんとペガサスの試合を東京へ観に行く事になりました。前年度に鹿島ディアーズが同ブロックに居たせいで3部リーグで優勝出来ず3部リーグ2年目のペガサスは100点ゲームばかりで2部に上がる年でした。大学の3部リーグでチョイチョイやれていると調子に乗っていた僕は彼らのプレーを見て打ち拉がれます。宮ちゃんも「オマエこんなトコでやれるんか?無理やって!」(*13)と言う始末。僕らにとっては、フィールドを駆けるスピード、ヒットの力強さ、プレーの精度、ジャージーから見える腕の筋肉量、何から何まで全く違う次元に見えたのです。

「コレは無理や!」と当然僕自身も思いました。

そして試合後にビビりまくっている僕らの所に近寄って来た楢崎五郎さんは「今度、防具持ってウチに練習しにおいでよ。色々教えてあげるからさ」と言い放ちます。

怖くなったので入団は辞退したくなりました。などと言える筈も無く後日防具を持って三武ペガサスの練習に1週間程

参加する事になったのです。

つづく

(*9)当時は殆どが実業団で、現在のようなクラブチームばかりになってしまうとは誰も想像出来なかった。

(*10)今で言うVARSITY BOWLですね

(*11)そうなんです。練習の手を緩めるのはヘタクソだけの得意技なんです。この時に「練習でおもいっきりプレーする」という事を学びました。普段は練習は7割8割でやり、試合で10割というバカな事が習慣付いていました。

(*12)実は「僕はヤル気も体力もあるが経験と知識が無い。だからイチから教えてくれるチームを紹介して下さい」と当時のMr.モンタナ店長だった上田ヒロヤさん(日体大卒オンワード現明大前F-FORCE店長)に相談していました。「今度東京からちょっと変わったチームの連中が大阪に来るから君の練習を見に行くように言ってやるよ。そこでメガネに適わなければ諦めなさい」と言われていました。ペガサスと僕を繋げて下さった上田さんには感謝しきれません。

(*13)ペガサスのフットボールは学生3部で1勝もしたことのない僕らにとって「早送り」のように見えました。というか早過ぎてよく見えなかった。その直前にコカコーラボウルを観て来て免疫は付いているハズなのに。ハードなタックルに挟まれ倒された敵のボールキャリアーが次々に担架で運ばれ、ペガサスのベンチに残っている5人程が談笑しながら一切の疲れも見せず試合を観ている。この2年間で圧勝している側のベンチに居た事が無いのもありますが自分達との余りの違いに僕と宮ちゃんは半笑いで震えていました。

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